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英傑たちの日本刀にまつわるエピソード……長曾根虎徹

戦国武将たちにまつわる日本刀の逸話を紹介したが、本項では幕末の時代に活躍した者たちの日本刀に関する逸話を紹介する。

長曽祢虎徹(ながそねこてつ)本名・長曾祢興里(ながそねおきさと)は、江戸新刀の代表的な刀匠。初め越前(えちぜん)国(福井県北東部)などで甲冑師(かっちゅうし)として知られたが、のちに江戸に出て刀鍛冶になる。

鑑定士の間では「虎徹を見たら偽物と思え」などといわれるように、虎徹の日本刀は、本人が生存中から偽物が出回るほど人気が高く、偽物が多い。

「今宵(こよい)の虎徹はよく斬れたわ」「今宵の虎徹は血に飢えている」これは、江戸末期の武士で新選組の局長を務めた近藤勇(こんどういさお)の有名な決め台詞だが、 実は近藤の虎徹も偽物だったという説が濃厚だ。 文久(ぶんきゅう)二年 (1862) 二月、幕府は勤王(きんのう)の志士を弾圧するため、関東の浪士を徴募した。翌三年 (1863) の春になると、京都において志士の横行が激しくなったため、徴募の浪士を上洛させ、弾圧に当たらせることを決した。近藤も隊員の一人として京都に向かうことになった。 「京都ではきっと激しい戦いが始まるだろう」と思った近藤は、渡された支度金で 虎徹を買うことに決め、さっそく刀屋を呼び出した。 「このたび公儀(こうぎ…公権力のこと。この場合は幕府)の御用で京都に参る。

ついては、よく斬れる太刀が欲しい。虎徹ならば申し分ない。探して参れ」 刀屋は必死になって探したが、希代の名刀虎徹はそう簡単には見つからない。やむを得ず、当時人気が出始めた「源清麿(みなもときよまろ)」の太刀を持ち出し、その銘を削り取っ て「虎徹」と切り直した。近藤は、この偽の虎徹をそれとは気付かずに、たいそう得意気に佩用し、京に向かった。そのあとの近藤の活躍ぶりは、後世伝えられているとおりである。

あるとき近藤は、江戸に立ち帰ったおり、「刀屋を呼んで礼を言おう」と思い立ち、刀屋に使いを走らせた。近藤に呼び出された刀屋は、「細工がバレたか」と真っ青になる。手討ちを覚悟に、妻子と水盃(みずさかずき…二度と生きては会えないだろうというときに酌み交 わす酒)を交わした。 そして、白帷子(しろかたびら)の死装束を身に着けて近藤のもとに出向くと、近藤は上機嫌で刀屋を出迎えた。そして、酒とご馳走で大いにもてなし、大枚の褒美まで授けて、虎徹を与えてくれたことに対する感謝を表したという。池田屋事件のあと、近藤が養父に宛てた手紙の中に「下拙(げせつ…男子のへりくだっていう一人称)の刀は虎徹故に哉、無事に御座候」とあり、近藤は虎徹を本物だと信じていたことがうかがえる。