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日本人と日本刀

先の項では英傑と日本刀に関するエピソードを紹介したが、古来より日本人の生活の中には日本刀との関わりがたくさんある。今回はそのようなエピソードをいくつか紹介していきたい。

日本人にははるか昔から日本刀を贈る風習があった。子供が生まれたとき、成人したとき、独り立ちするとき。 刃物を贈ることはその人との縁を切ることを意味するようで縁起が悪いと思われがちだが、本当にそうなら、この風習が延々と続くことはない。代々日本人は、悪運を断ち切るとか、未来を切り開くといった思いとともに、自らの「魂」をも込めて、大切な人に日本刀を贈ってきたのである。寛永(かんえい)十八年 (1641) 、三代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)に、長男・家網(いえつな)が誕生した。御七夜(おしちや…子どもが生まれて七日目のお祝い)には、全国の諸大名から、将来将軍となる男子へと、多くの誕生の祝いが贈られた。『徳川実紀』(とくがわじっき…十九世紀前半に編纂された江戸幕府の公式記録)によると、尾張大納言(おわりだいなごん)義直(よしなお)卿(家康の九男・徳川義直)からは、「助真(すけざね)太刀」を御所へ。「包平(かねひら)太刀」「長光(ながみつ)刀」「来国次(らいくにつぐ)脇差」を若君へ。紀伊(きい)大納言頼宣(よりのぶ)卿(家康の十男・徳川頼宣)からは、「国宗(くにむね)太刀」を御所へ。「長光太刀」「長光刀」「来国次脇差」を若君へ。

水戸(みと)中納言頼房(よりふさ)卿(家康の十一男・徳川頼房)からは、「来国光太刀」を御所へ。「則次(のりつぐ)太刀」「長光刀」「来国次脇差」を若君へ。 いずれも、目もくらむほどの名刀ばかり。特に注目したいのが、鎌倉時代後期の備前伝(岡山県南東部)長船(おさふね)派の刀匠「長光」、そして、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて山城国(京都府南部)で活躍した来(らい)派の刀匠「来国次」の作刀である。 格式のある名工の作であることは当然のこと、「若君の世が長く光り輝くように」と輝かしい未来を願って「長光」を、「来るべき国を継ぐ若君へ」という祝いの気持ちを込めて「来国次」が選ばれたのである。